デスエデュケーション

先日大学の講義でデスエデュケーションというものがありました。
何だそれって言う方も多いと思いますが、直訳すると「死の教育」、詰まる所は死について考えましょうという授業です。


死かぁ....最近は本当にあまり考えたこと無かったです。私は近しい人の死に立ち会ったこともないし、そもそも考えても答えが出そうに無いし、死後の世界なんてある気がしないし、何て言うか考えた所で生産性があるとは思えんじゃないですか。大学で死そのものについて考える講義も少なくて、というか全く無くて、これは全国のほとんどの医学部でもそうみたいです。今回のデスエデュケーションの授業内容としましては社会学の先生と心理学の先生が計2時間程度の授業時間の中で、少人数の学生相手に死のイメージを尋ねたり、ロールプレイングを通して死を扱ってみたり、またビデオ教材も見させて頂きました。

授業冒頭、「死のイメージを書いて下さい。」そう言われたので宇宙って書きました。子供の頃に抱いたイメージです。宇宙っていっても暗黒じゃなくて、真ん中に大きな太陽みたいな惑星が光っててその周りをを自分の意識が浮遊してるような感覚。うとうとしてた中で描いた単なる夢うつつのようなイメージの気もしますが、何か自分の中では一つの結論が出たみたいな気がして以降死についてあまり深く考えなくなるきっかけとなったイメージです。

その後、死について述べた二つの有名な本も紹介されたのでここに書いときます。
一つは柳田邦男の著書で彼はその中で
「1人称(私)の死」:自分自身の死。
「2人称(あなた)の死」:親子・兄弟姉妹・恋人の死。残された人は自分自身の一部を喪失したような辛さ・悲嘆を味わうことを余儀なくされる。
「3人称(彼・彼女)の死」:第三者の立場から冷静に見ることのできる死。ニュースで見るようなありふれた死でそれで自分が感情的になったり日々が変わるわけではない。
そして彼は医療者が現場で出会うのは主に「2.5人称の死」であるとも言っておられます。これに関しては成る程なといった感想を持ちました。

続いて紹介されたのが死の受容過程について説いたエリザベス・キューブラー=ロス。彼女はその著書で
「否認」:自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階である。
「怒り」:なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階である。
「取引」:なんとか死なずにすむように取引をしようと試みる段階である。何かにすがろうという心理状態である。
抑うつ」:なにもできなくなる段階である。
「受容」:最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階である。
という一連の死の受容過程を経験を基に書いておられます。
医療者が患者(特に末期の方)と対峙していく上で知っておくべき心理といったところでしょうか。

とまぁここまでが授業の概略で、ここからは個人的な意見ですけれども、まず私も含めて若い人からしたら死をテーマにした授業ってやっぱりピンと来にくいと思いました。普通の若々しい学生からしたら死って日常からあまりにもかけ離れてるんですよね。だからこそ将来医療者となる人間にいまのうちから考えさせることが授業の目的なんじゃないかって言う声も聞こえてきそうですが、それにしては授業内容があまりに踏み込めてない印象ではありました。たとえば、死を扱ったロールプレイングは、末期の患者さんが「私はいますぐ死ぬんですか?」って訴えられた時に医師はどう受け止めどう答えるかみたいな想定問答だったのですが、フィードッバックして下さる先生側も終始、最善の回答はないんですが、っていう前提でお話されるんですね。それはそうなのかもしれないけど、折角なら医師として2.5人称の死に直面したとき患者さんにどう接しどう答えるのが望ましいかくらいの具体的なbest answerとまでは行かなくてもbetter answerくらいの明確な意見を聞きたかったです。あと個人的には先生の死生観もお聞きしたかったです。だって死について考えようって言う人が自分の死生観語らなかったら訳分からないじゃないですか。サッカーの先生はやっぱりサッカー経験者なりに見本を見せてくれないと。

実は授業以前から死に関して気になってたこともあって、それは子供を持つと1人称の死生観は変わるのかということ、特に死への恐怖は緩和されるのだろうかってこと。思い切って先生に聞いてみたところ、確かに死生観は変わって生きなければと言う感覚は強くなるけど、別に死への恐怖は緩和されないみたいです。死への恐怖っていうと表現が難しいですけど、もし自分がこの世から巣立っていっても自分の分身(遺伝子)が残ったり、あるいは子供の中に自分が生き続けたり、みたいなそういう感覚。でもそういうのはあまり感じないみたいですね。

授業がきっかけで改めて思い出した古い言葉があって、「死を想え」といって死を想えば全てが小さく思えるっていう意味だと自分では解釈してるんですが、中々いい言葉だなと思います。死を想うことで自分が生きてる今だったり世界が小さく見えるんですよ。死を思うことで生きやすくなる、みたいなね。その一方でもし仮にあなたが一週間後に死ぬと分かったら何をしますか?って聞かれた時には(授業でも同じことを聞かれましたが)私だったら逆に死に関して考える時間を減らそう、忘れようって思う気がするんですよね。上二つを見て改めて考えたとき、どちらの根本にもあるのはやはり生で結局1人称の死の捉え方なんて生きて行く中で柔軟に生きやすい方に捉えていけばいいんじゃないんでしょうか。2.5人称の死に関してはこれから勉強して行きます。そんなことを思った今日この頃です。